2010年ごろ、千葉県のある家庭で一枚の写真が撮られた。
柴犬がソファーの上に座っている。前足を揃え、首を少し傾け、横目でこちらを見ている。なんとも言えない不思議な表情だ。
飼い主はその柴犬を「かぼすちゃん」と呼んでいた。
飼い主がその写真をブログに投稿したのに、特別な意図はなかった。ただ、愛犬がかわいかったから。
しかしその写真は、インターネットの海に飛び出すと、誰も予想しなかった旅をすることになる。
柴犬「かぼすちゃん」世界の旅に出る

かぼすちゃんの写真は、海外のSNSで「Doge(ドージ)」というミームになった。
ミームとは、インターネット上で拡散されるネタ画像のことだ。かぼすちゃんの顔に、こんな文字が添えられて世界中に広まった。
「such wow(なんてこった)」
「very coin(すごいコイン)」
「much money(お金いっぱい)」
ぶち壊れた英語で書かれた、ゆるゆるの言葉。
このゆるゆる英語がとても面白く、誰もが笑い、誰もが皆に広めたくなりシェアしまくった。
かぼすちゃんは「世界で最も有名な犬」の一匹になっていったのである。
ドージコイン誕生

アメリカに、ビリー・マーカスというソフトウェアエンジニアがいた。
あるとき、ビリーは思った。

暗号資産って、難しすぎないか? もっとゆるくていいんじゃないか。面白くすれば、もっと広まるに違いない。
当時の暗号資産業界は、みんな血眼になって暗号資産で稼ぐことに必死。
「世界の金融システムを変える」
「人類の未来だ」
などと
どこもかしこも、おおげさな主張であふれかえっていた。
ビリー・マーカスはジャクソン・パルマーという、もう一人のエンジニアと組んで即座に「あの柴犬のミームをコインにしよう。ジョークで作る。それでいい」と決めたのだ。
こうして、2013年12月6日にドージコインが誕生したのである。
「ジョークのコイン」の特徴
ドージコインは、あらゆる点でビットコインと正反対に設計されている。
- ドージコインはビットコインと違い発行上限はない
- ドージコインには「事業計画書(ホワイトペーパー)」がない
- ドージコインのコンセプトは面白ければそれでいい
世界は笑いながら、ドージコインを受け入れた。
リリースからわずか2週間ほどで価格は一時、3倍以上に跳ね上がり、「ジョークのコインがこんなに広まるのか!」と、作ったビリー自身が驚き、大笑いした。
ドージコインのファンは、ちょっと変わっている

普通、暗号資産のコミュニティが話し合うのは「いかに価格を上げるか」だ。
でも、ドージコインのコミュニティは違った。
彼らのスローガンは「Do Only Good Everyday(毎日いいことだけしよう)」。頭文字を取ると「DOGE」になる。
2014年1月、「ジャマイカのボブスレーチームが、資金不足でソチ冬季オリンピックに出場できないかもしれない」というニュースが流れた。すると、ドージコインのコミュニティが動いた。
数日間でドージコインを出し合い、約3万ドル分を寄付したのだ。おかげでボブスレーチームは、見事オリンピック出場を果たした。
同じ年には、清潔な水が不足しているケニアのために「Doge4Water」という寄付キャンペーンを実施。井戸を掘る資金を集めた。NASCARのレースカーにドージコインのロゴを貼るため、クラウドファンディングをやったこともある。
「ジョークのコイン」として始まったはずが、現実の世界で多くの人を助けていたのだ。
ドージコインが大好きなイーロン・マスク
テスラ、SpaceX、X(旧Twitter)のCEO。世界一の富豪とも言われるイーロン・マスクは、ドージコインが好きだった。
2021年2月4日、彼はSNSで投稿する。
「Dogecoin is the people’s crypto(ドージコインは人々の仮想通貨だ)」
この投稿をきっかけに、ドージコインの価格は数時間で急騰。世界中のメディアが「イーロン・マスクがドージコインを支持した!」といっせいに報じた。
さらに同年5月、イーロン・マスクがアメリカの人気テレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」に出演することが決まる。世界中のドージコインファンは「番組でドージを大々的に紹介してくれるはずだ」と胸を高鳴らせ、放送当日に向けて価格はぐんぐん上がっていった。
ところが番組でイーロン・マスクは、予想もつかないことを言ったのだ。
「Dogecoin is a hustle(ドージコインはハッタリだ)」
この一言の瞬間から、ドージコインの価格はみるみる暴落し始めた。
一人の男の発言で、時価総額数兆円が動く。このとんでもない出来事によって、ドージコインは(皮肉にも)ますます有名になった。
宇宙を目指す犬のコイン

「ハッタリ」とは言ったものの、イーロン・マスクのドージコイン愛は本物だった。
その証拠に、テスラの一部グッズはドージコインで購入できるようになっている。さらにSpaceXは、「DOGE-1」という月探査衛星の打ち上げ計画を発表。その費用は全額ドージコインで支払われる。実現すれば、史上初の「暗号資産で決済された宇宙ミッション」だ。
そして2022年10月、マスクはTwitter(現X)を買収する。半年後の2023年4月のある朝、アプリを開いたユーザーは目を疑った。
トップページのロゴが、青い鳥からドージコインの柴犬に変わっていたのである。
「ジョークで作ったコイン」が、世界最大級のSNSの顔になる。誰がそんなことを予想できただろうか。
アメリカ政府に「DOGE省」が誕生
2024年の大統領選挙で、ドナルド・トランプが勝利した。
トランプはイーロン・マスクを、政府の無駄を削減するための新組織のトップに任命する。その組織の名前が発表された瞬間、世界中が雄叫びを上げた。
その名も
D.O.G.E.(Department of Government Efficiency=政府効率化局)
略称が「DOGE」。ドージコインと、まったく同じ。
この発表をはさんだ1カ月で、ドージコインの価格は2倍以上に跳ね上がった。千葉県の犬の写真が、アメリカ政府の組織名になった日である。
2024年5月、かぼすちゃん旅立つ

すべての始まりとなった、千葉県の柴犬「かぼすちゃん」。
2024年5月、かぼすちゃんは18歳で亡くなった。
世界中のドージコインファンが追悼メッセージを送り、X上では「かぼすちゃん」がトレンド入りした。世界中の人が、一匹の柴犬のために涙を流したのだ。
一枚の写真がインターネットのミームになり、暗号資産のシンボルになり、宇宙を目指し、アメリカ政府の組織名にまでなった。そして今、この記事を書いている時点で、ドージコインの時価総額は約2兆円。世界の暗号資産ランキングでトップ10に入っている。
ドージコインから学んだこと
この物語には暗号資産の本質が隠れている。
ビットコインは「銀行のいらない世界を作る」という真剣な理念から生まれた。サトシ・ナカモトは論文を書き、エルサルバドルは国を賭けて実験した。
ドージコインは、「面白いから」というただそれだけの理由で生まれた。
真剣じゃないから、誰でも気軽に近づけた。
難しくないから、みんなが参加できた。
面白いからから、一気に広まった。
「価値とは何か」という問いに、ドージコインはこう答えているに違いない。

「みんなが面白いと思えば、それが価値だ」
難しい論文も、国家の宣言も必要ない。千葉県の一匹の犬が愛くるしい横目でこちらを見ている。それだけで、世界中の人々が動いたのだから。